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「kerana」はパラグアイの言葉・グアラニー語で夢を表す「kera」と「絆(きずな)」を足した造語
Ñanduti Academy kerana主宰の千森麻由です。
ニャンドゥティ講師であり、作家でもあります。
ワークショップは事前のご予約で満員、京阪神下で開催中の教室も9割埋まるほど盛況、日本のニャンドゥティ人気を肌で感じています。
ニャンドゥティに出会い、2021年で10年目を迎えました。
その節目に”お伝えする人”を輩出する講師科をスタート、そこから5人の講師が誕生しました。
お伝えする仲間も増え、より一層ニャンドゥティの普及に努めていけると確信しています。
今は、ニャンドゥティに全力で取り組むわたしですが、
ニャンドゥティに出会う以前は自分のやりたいことが定まらず、想い悩んでいた過去がありました。
「わたしには何もない、何ができるのかわからない…」
誰にも相談できず、長い間もがいていました。
そんな中、2011年に世界一周の旅に出たことを機に大きな変化が訪れました。
立ち寄った南米パラグアイでニャンドゥティと運命の出会いを果たしたのです。
色彩も魅力でしたがつくり方が面白かったことに、強く興味を惹かれました。
レース編みでもなく、かぎ針編みでもない、そして最後は布から切り取るという工程が独特で面白く映りました。
初めて見た時から「出会ってしまった!」と運命的なものを感じたのを今でも鮮明に覚えています。
帰国後、ニャンドゥティが頭から離れず、翌年に再度パラグアイへ。
本場の技術を学ぶためにニャンドゥティの街イタグアに住み込み、
現地で直接指導を受けるようになりました。
初めはパラグアイの国立学校で学んでいたのですが、
ニャンドゥティの授業が週に1回、たった3時間ほどと少ない時間設定に
不安を感じ、学校の先生に「ニャンドゥティを習うために日本から来ました!
どうか毎日教えてください!」と頼み込み、先生に個人レッスンをしていただくことになりました。これでしっかりと学ぶことができると思ったのもつかの間、
公用語であるスペイン語が当時全く理解できず、言葉の壁が大きく立ちはだかりました。
ジェスチャーで身振り手振り、時には辞書片手に筆談してもうまく説明できず、
「疑問点が解決できない…」ひたすら困りました。
でもそんな時は「言葉がダメなら、見て覚えよう」と気持ちを切り替え、
先生の素早い手の動きを目を皿のように、じっと見続け何とか覚えていきました。
毎日が体当たりの日々でした。
それから、毎年パラグアイへ渡航。短くても1ヶ月間、長い時は3ヶ月間滞在。 その間、ニャンドゥティづくしで勉強に励む毎日。
修行の中、難しい作品を作り上げた時は達成感を感じたものです。
ニャンドゥティの中に”アラサペ”というモチーフがあるのですが、
パラグアイの方でも編めない人がいるほど難易度が高いのです。
この難しい”アラサペ”をたっぷり盛り込んだ大作を仕上げた時に、
パラグアイの友人に「アラサペが作れるの?!!スゴイ!!!」と大変驚かれました。
その時は本当に嬉しかったです。
渡航生活も3年が経った頃、いつの間にか技術も身につき「わたしはできる!」と自信もできていました。
そんな困難もありながら、
ニャンドゥティを日本の方にご紹介する私の手芸ブランド”kerana"が誕生したのです。
継続問題
長く過ごすうちに、パラグアイで友人が出来てきます。
友人から聞いた話により、わたしの今後を大きく転換しました。
「昔は、ニャンドゥティを作る人が大勢いたの。今はとても少なくなってしまった。
それはお金にならないから。。。
若い人たちは興味をもたないの。
このままだと、いつかニャンドゥティがなくなってしまうんじゃないかって思うの。
世界でニャンドゥティが作られているのは、ここイタグアだけだしね。。。」
パラグアイではニャンドゥティが安値で取引されており、
ニャンドゥティで生計を立てるのが困難です。
このままでは大好きなニャンドゥティが途絶えるかもしれない…
大きなショックを受けたと同時に私は使命感を感じ、
「じゃぁ私が日本でニャンドゥティを広めるよ!!!」と。
ニャンドゥティが”趣味から仕事”にシフトした瞬間でした。
課題 - パラグアイへの還元
パラグアイは1人あたりのGDPが約5,000ドル(日本は約40,000ドル:2019年)と、
中南米諸国の中でも貧しい国です。
現地の方がニャンドゥティを続けていくには”ビジネス”として成り立たなければいけません。
そのために、”現地にお金を還元する仕組み”を作ろうと考えました。
まず、パラグアイのニャンドゥティを日本で販売しましたが、
現地のデザインそのままではあまり売れませんでした。
それならばと次は、わたしが日本人向けにデザインし、パラグアイの友人に仕立ててもらい販売する方法をとりました。
この方法ではそこそこ売れたものの、製作に難点がありました。
言葉と距離の壁が厚く、希望通り仕上げてもらうのが難しかったのです…
それでも何とか形にしたくて、毎年パラグアイへ通いましたが、製品を安定した品質で作ってもらうには
パラグアイで住み込み、みんなと寝食を共にする位、蜜にコミュニケーションとらなければ実現できないと感じるように。
小さな子どもがいるわたしがパラグアイへ完全に移住するのは不可能です。
販売が難しいとなれば、今後” 現地にお金を還元する仕組み”をどう確立すればよいのか、、
頭を抱えていた頃、出展したイベントでお客様から「可愛い!作ってみたい!」と立て続けて言われたのをきっかけに、作家業から講師業へ少しずつ切り替えていくことになりました。
目標
日本はちょうどハンドメイドブーム真っ盛り、ニャンドゥティの人気も高く、教室は関西各地で開催。これまでの生徒さん数は450人(2020年時点)、
”ニャンドゥティを伝える”ことはかなり達成できたと実感しています。
また、生徒さんの中にはパラグアイに渡り、直接ニャンドゥティを購入される方もおり、少しずつ還元が出来ていますがまだわずか。
理想の形には到達できていません。”現地への還元”は、課題として残っています。
しかし、この大きな課題に取り組むにはわたし個人では限界があります。
団体で力を合わせる方が必ず大きな結果を生むものです。
今後活動を広げていくためには、手伝ってくれるパートナーが必要です。
同じ目標をもった仲間をたくさん増やし、
アカデミー単位でものごとを成し遂げていきたい。
また、わたしがニャンドゥティに出会い救われたように、
思い悩む誰かの道しるべになりたい。
また、自分が母になったのをきっかけに、
こどもと触れ合える時間をもっと作りたいと思うようになりました。
“ママになると、自由がきかなくなることがある。”
そう思ったのは、育児休暇中に、興味のあるレッスンや場所へ行きたくても
「おこさまはお断りしています。」といわれ、参加できない場所が
ものすごく多いんだなと感じたこと。
そして、産後、講座を再開した際に
同じように母になっていたわたしの生徒さまでも、
「教室へ通いたかったけど、センターへは子どもは連れていけないらしくて・・・残念です・・・」
とご連絡があったり。
ママは毎日すごく頑張っているのに、好きなことすら我慢しなくてはいけないの?
とすごく悲しかったのを覚えています。
なので、わたしは親子が一緒に参加できる場所を作りたいと思っています。
コロナ禍で、海外になかなか行けなくなってしまったり
在宅ワークで家で過ごすことが多くなったママたち、
外で遊ぶこともはばかられるようになった子供たちが、
ニャンドゥティを体験してみることで
子供と一緒に好きなことをする時間は最高に幸せなのではないかと思います。
そして楽しく過ごしていただいた結果、 それがパラグアイへも還元できる形を作っていく。
「パラグアイへの還元」はわたしたちからパラグアイに何かしてあげる、というような一方的なものになるのではなく、
日本の人たちも楽しくて、幸せな時間を過ごした結果が実はパラグアイへの還元になっていた。
というような、どちらにもプラスになる環境を作っていくのが今後の目標です。